友人に対する依存の癖

皆さん、こんにちは。

最近は、小学生の頃から、"を"の音を"うぉ"と出している人が一定数いるなあと思っていたのですが、あれ、ローマ字で見てみれば簡単な話だった事に10年経って気づいた私です。

"わ"の発音を考えてみると、"あ"にwの発音を足して"わ"と発音しているわけです。"わ"を細かく分けると"うぁ"と発音しているわけで、つまり、wの音は"う"であることがわかります。なのでwにoを付けて発音すれば、"うぉ"となることは当然のことでした。そんなことうぉ今更になってうぁたしは気づいた。

 

 

 

私はもしかしたら生来の依存症なのかもしれない。そう思ってしまうほど、私にはどうにも人に委ねてしまうところがあるようだ。

 

もともと友人は多く持つタイプではなく、数名仲がいい人がいればいいという人間だった。物心ついた時からなんとなくそんな感覚はあって、自ら交流を広げるのにはよく苦労したものだった。幼稚園から中学にかけてはずっと仲のいい人とつるんでいて、それが全てであり、その人たちの判断が私の判断であることが多かった。

心の安定の取り方は人それぞれであり「色んな人と常に交流してなければ落ち着かない」と言う人もいれば、「信頼できる居心地の良い関係の中で落ち着いていたい」と言う人もいるだろう。私は間違いなく後者であった。

 

高校の時、生涯信頼できる関係を手に入れた。間違いなく良い関係であり、良い出会いであったと思う。しかし、私の場合、過度な信頼は依存へと変化していき、私を盲目にさせてしまった。信頼しているが故に、たとえ気をつけていようとも、無条件にその全てを正しいと、あるいは肯定的に捉えてしまうことが多くあった。

 

私は今、大学生の普遍的な悩みである「自分の正体とやりたいこと」について悩んでいる。自分を構成する要素は間違いなく自分であるが、自分を評価するのは他人であることが多く、また、意外と他人から自分を知ることがある。そして「自分の正体」を知る際には、今まで自分が他人にどれだけ正体を晒してきたかが重要になる。この点においては、依存するほど信頼しているためほとんど晒してきたと言える。しかし、より正確に他人と比べた自分の正体を知るためには、相対評価が必要になってくる。これが問題なのだ。

 

情報というのは、常にアンテナを張っていないと入ってこない。そして真実を知る際には、その情報量こそがより正確な真実の輪郭を描き出すものだ。あまり人と深く関わらない私であるために、相対評価をする際の情報量が少ないのだ。そんな中、依存相手に「君は〜が優れているからやったほうがいい」と言われてしまう。自分のことを一番深く知っている彼の口から発せられているのだから間違いない。正しいはずだ。やるべきだ。こんな風に無意識のうちに肯定してしまうのだ。私はもしかしたら依存を通して自分の人生の責任を押し付けようとしているのかもしれない。君が可能性を提示するから乗っかっただけだと言うように。

 

やりたいことを探している私は、絶対の信頼を置く依存相手をまるで自分の一部のように扱い、その目に映る私からやるべきを見つけ出した。その目は私のではないし、その可能性も私が信じたものではない。どこまでいっても私は私であり、彼は彼であり、自分のように扱うべきではない。

 

つまり今の私は、自分の本当の価値が分からないのにも関わらず、彼の言葉を盲信し、責任を押し付けた上で自分の判断であると主張しかねない。その上、やりたいこととやるべきことがわからなくなっている。恐ろしいのは、このことに今まで気づかなかったことだ。このまま気づかなかったら私は彼の目で私の人生を描き歩むところだった。

 

今一度この距離を計り直すことが必要だ。どこか遠くで過ごすも、他から刺激をたくさんもらいに行くのもアリだ。一度リセットして、本当の自分と向き合い、やりたいことを探すことが重要だ。