永遠のマイノリティ「左利き」
皆さんこんにちは。最近は、鼻かぜを引いてしまい、締めそこなった蛇口のように無限に出る鼻水を垂れ流しながらどうにかこの永久機関を活用できないか、と考えていた私です。
どうしてあんなにも出るのだろうか、一日にどれだけの量出ているのかを瓶に集めて確認してみたい。ちなみに思いついた活用方法は、ろ過装置を使って水筒なしで飲み水を持っていけるというものである。まあ普通に飲みたくないし、そもそもろ過装置のほうが水筒より幅取るだろうし、とにかく最低な案だった。
さて、人間社会というのは常にマジョリティーであることを前提として作られている。これは種が持つ生存本能として正しい姿であり当然のことだと思う。しかし、一旦マジョリティーからはみ出してしまうと、にわかに歯車がかみ合わなくなるようになっている。こと利き手においても同じことが言える。
皆さんは左利きの割合をご存知だろうか。世界的な平均で見ると左利きの割合は10%ほどだと言う。
いや、意外と多いな、、、
10人に1人は左利きと考えると割と身近な存在な気がしてくる。
しかし、さらに個人的に驚きなのは、アメリカよりも日本の方が左利きの割合が高いそうだ。日本での割合は12%で、アメリカではなんと2%ほどしかいないそうだ。これは完全に私のイメージだったのだが、日本発祥の競技や文字が右利き用に作られていたり、文化を重んじる日本の方が利き手に関しても厳しいと思っていた。実際はアメリカの方が利き手に関しては厳しいのかもしれない。自由の女神ももしかしたら強制されて右利きなのかもしれない。右手めっちゃ掲げてるし。
なんて左利きの割合データを見ただけで思ってしまっていたが、この見解はどうやら間違っていたようだ。
アメリカの両利きの割合を見てみると誤りであることがよくわかる。両利きの割合はなんと28%もいるそうなのだ。そう、自由の国ではもはや利き手という概念に縛られていないのだ。だと思ってたぜ、信じてたぜ、ほんとだぜ。
まあこのように誤解してしまうことがあるのが統計データの罠である。あたかもそのデータが全てであると思い込み、母数やカテゴリーの少なさなどを見落として、事実の解釈を誤ってしまうのである。
なんとなく恥をかいた気がするので、未だに右利きと左利きで縛ってるなんて極めて日本的であると揶揄して心の安定を取っておきたい。
話がややそれてしまった気がするが、とにかく私が言いたいことは、日本において、この10%ほどの左利きの人々は生きづらさを感じているということだ。
先ほど、日本発祥の競技と述べたが、特に「道」のつく競技には個人的にかなり鬱憤が溜まっている。なんせ、そのほとんどが右利き用にできているからだ。さらに男にとっては、これらの競技を学生時代に体育の授業で行わなくてはいけないのだ。そう、この時初めて、この右利きの星に生まれ落ち、自身がマイノリティであることに対して洗礼を受けることになるのだ。
まず小学生の書き初め大会を皮切りに右利き文化による暴力は始まったのだ。とは言うものの、私の母親は、私を習字教室に無理やり通わせていたので、恥辱を受けるどころか賞を取るくらいだったのだが。
まだ物心ついて間もない私は、幼心にも
「母よ、なんぞ我はわざわざ字を教わっているか、文字は不自由なく書け得ているぞよ」
と思っていた。しかし、私の母親は学校での書道を見越して、通わせていたのだ。今になって、理解し感謝することになった。めっちゃサボったりしてごめんなさい。
しかし、中学に上がり、私は結局マジョリティの餌食になる。それは柔道によって行われた。
私は線は細いが、割と運動は出来る方であった。そのため、体育の授業は好きで初めてやる柔道も楽しみだったのだ。そんなウキウキで無邪気な私だったのだが、教員の絶対的な一言で戦慄することになった。
「右利きの形でやれ」
動悸がし始め、眩暈を覚えた。やがて視界が暗黒に支配され、気がつくと畳の上で薄汚れた蛍光灯の光をぼんやりと眺めていた。まあ流石に言いすぎた。
しかし実際、体一連の動きを逆にやれというのは、極めて難しいことである。その時の私は戦慄こそしたものの、右利きの動作はそこまで難しいものではないと高を括っていた。
一通り練習をし、精神統一をしたのち、組み手が始まった。もはや心技一体となった私に怖いものはなかった。
いざ尋常に、一本目。
私は先に相手の足を取り、素早く腰を下ろし、相手と反対方向に体を捻らせた。背負い投げの形だ。しかし、瞬間、私は困惑した。
体がついてきていない、だと…!?
心技が一体となったはずの私のイメージと体が全く噛み合っていない。イメージはミスター靴べらこと柔道の篠原さんの背負い投げだ。しかし、実際私はどうだろうか。
ほぼ間違いなく、ぎこちない中腰で大便を踏ん張る真っ赤な顔した篠原さんの態だったろう。申し訳ない、篠原さん、公衆の面前で。
持ち上がらない相手の体。
瞬間、私は悟った。暫しの逡巡ののち、ゆっくりと相手に向き直り、体に力を入れた。
私は今、夢のように思い出す。
「殺れるのは、殺られる覚悟のあるやつだ」
その言葉の真意を。
旋回し、一瞬のうちに変わる景色に意識が追いつかず、私は宇宙の片鱗を見た気がした。気がしただけだ。気がつくと畳の上で薄汚れた蛍光灯の光をぼんやりと眺めていた。受け身はもちろん屋上から転落死した篠原さんの態だ。何度もすまない、篠原さん。
このまま母国を亡命したい衝動に駆られたが、よく考えたら私は政治家でもなければ軍人でもなかった。
不甲斐ない結果になった私は、憂さ晴らしに体育教員に文句の1つも言えるような気概は持ち合わせていなかったので、心の中で散々悪態をついた。こんな気持ちになるなら、もういっそのこと別の星で手足10本くらいで生まれたかった。
このような恥辱は中高にわたって続いたが、これ以上ここに綴るにはあまりにも長くなり、気力が持たないのでやめておく。何よりそんな実はそんな重大な問題じゃない気がしてきた。
しかし、左利きの方は言わずもがな、ご存知の通り、世の中には右利き用にできているシステムが数多く存在する。その全てが純粋な左利きにとって地味にストレスになることが多い。左利きのために改善しろとはとてもじゃないが言えないが、それでもそのために永遠のマイノリティが誕生してしまうのを訴えたいのだ。
何より、左利きの寿命が平均より9年短いと聞いたのでなんか騒ぎたかった。
まあこれも統計データの罠かもしれないが。