「専業主婦」って何なんだ!?
最近は「共働き」という言葉が聞き慣れてきたが、とあるネットの記事で「そもそも日本の伝統的な家族観は専業主婦ではない」という意見を目にし、私は少し面を食らった。その意見は、歴史的背景や世界観を無視する政治家に対する苦言であったが、私自身も勝手に日本の家族様式だと思っていた節があるため、この記事を書くに至った。
専業主婦とは何か
簡単に言うと、家事や子育てなど、家のこと全般を従事する既婚の女性のことを言う。感覚的には、夫が外でお金を稼ぐ仕事をし、妻は家でお金が発生しない仕事をしている感じだ。この文化は日本だけでなく、海外でも専業主婦をする文化はある。
専業主婦の歴史
私のような20代前半の人たちは、体感的に、共働きと専業主婦の親が半々いる世代だと思う。最近になって共働きをする家庭が増えてきたからだ。そんな私たちにとって専業主婦という家族観は、昔からある日本の伝統的な文化と錯覚してしまいがちかもしれない。
しかし、実際は専業主婦という文化は、比較的新しいものである。日本では大正時代から主流となってきた文化だ。単体でこの文化が発生したわけではなく、サラリーマンと同時に発生したといわれている。むしろその前までは、共働きが主流であり、専業主婦は一般的ではなかった。この背景には、職業形態の変化が深くかかわっている。
産業革命のよる工業化が専業主婦の発生の原因とされており、農業から工業への移行が賃金上昇と男性雇用の拡大を促進し、また国も男性が稼ぐ世帯を前提とした保険や扶助に関する制度を作り始めた。この職業形態の変化による動きは日本だけでもなく諸外国でも同じようにあった。イギリスでは19世紀の中ごろから20世紀中ごろに専業主婦は確立した。
産業革命前の農業が主な職業であった日本では、収入も安定せず、全体的に賃金が低かったために家族全体で働くことが多かった。そう考えると、専業主婦が確立できたのは、なにより工業化による賃金の上昇の恩恵が強いと考えられる。
現在の状況
近年になって共働きという言葉はよく聞くようになったと思う。そう、現在専業主婦の割合は減ってきている。今までの歴史から考えると、専業主婦というのは高度経済成長期にポッと出てきた新しい文化に過ぎず、その文化がさらにバブルによってたまたま長いこと続いただけであり、大きな歴史の流れで見ると異質なものである。つまり賃金の平均が急に上がったためにできたことであり、当然その平均が下がってきたのなら衰退するべき文化である。にもかかわらず、いまだに過去のバブル期を引きずって、日本の伝統的文化などと発言することは愚かなことである。
また、個人的には日本における、武士のころから続く女性差別の問題も、専業主婦が主流になったことで、より問題が深くなったはずだと考えている。人間が生きていくうえで一番必要なものにおいて意図的に男女で差をつけることは、本能的に立場の違いを感じてしまうはずである。そのために、現在専業主婦が差別用語とされていることには納得できる。差別問題とも合わさって、このままこの一時的な風習は衰退していくはずだ。
まだ20代である私の肌感覚で言うと、この異質な文化も女性軽視も年功序列も、古い時代人の産物であり、多様化を始めた時代に生まれた私たち根本的に馴染みのない文化であると感じる。そんな私たちが日本を代表する世代になったときに、若い世代たちにはどんな言葉をかけられるのか、不安でありながら楽しみである。
すね毛が、単に脛から毛が生えているという認識に収まらなくなってきている。
皆さんこんにちは。最近は、原付で横抜けをしていたら隣の車のミラーに原付のミラーが掠ってしまい、そのまま少し頭を下げて去ろうとしたところを呼び止められて、久々に悪いことをして本気で怒られた私です。
いやほんとドキッとした。恋とかじゃなくて。高校生の時ぶりに、悪いことして怒られる前に起きる脳への電気信号が断たれたような気分の急降下、非がありすぎて緊張でこれでもかというほど委縮する心臓、そして謝罪に備えて丸まっていく背中、あの感じを味わった。「てめえ、ヤー公だったら何されてるかわからねえぞ卍」ていわれた。すでにその人ヤー公だったわ卍
男性諸君、すね毛は好きだろうか。おそらく多くの人が、特に興味がないというだろう。私もそうだった。しかし、つい去年のことだ、私の脳内ですね毛についての認識を改める動きがあった。
昔の私はすね毛を見て、
「おっ、生えてンネ~」
と、だいぶ寛容的だった。
しかし、今の私ときたらすね毛を見て、
「うわ、なんで存在してんの」
と完全なる拒絶を示している。
なんでこんなことになってしまったのだろうか。きっと時代の影響が強いように思う。最近は色白の男性や清潔感のある男性(昔からあると思うがより求められているように感じている)がもてはやされているからだろう。無意識のうちに、この時代の流れに飲み込まれていた。もう昔のように、友達感覚ですね毛を見ることは叶わないだろう。一方的に敵対してしまっている。
しかし考えてみてほしい。私は今まですね毛フェチの人に出会ったことがない。多分これからも。すね毛を嫌いに思っても好きになる人なんていないだろう。「あ~、このもじゃもじゃ感、たまんない~♪」なんて言う人が果たして存在するだろうか。そんなの宇宙すぎる。
認識がどうでもいいから下しかない存在なのだ。もういらないだろ。だって何のためについてんの、これ。このもじゃもじゃで埃でも絡めて取るんですか。なんなんですか、一体。
いや、なんとなく男としてすね毛の存在をここまで気にするのってなんか恥ずかしくてね…。多分この気持ちを分かる人は結構いるはず。
そんな感じで誰に言い訳をするわけでもなく、なんとなく恥ずかしがりながらすね毛を脱毛しました。
ええ、脱毛、しました。
ブラジリアンワックスをアマゾンで買ってね、自分の部屋で抜きまくったんすよ。ええ。
つるつるだよりゃああ!!!!
久しぶり!!つるつるの脛!!長い間寂しい思いをさせたな。あの化物は俺が全部ぶっ倒してきたぜい!!
まるで生まれ変わったような気分だった。もうズボン履くときとか地肌に当たりすぎてすごい。履いてる間もなんか落ち着かない。まるでノーパンで過ごしてるみたいな。
まあノーパンしたことあるのが間接的にばれたが、思った以上に脱毛はよかった。なんか新しい感覚だし、なんか無駄に足きれいだったし。目障りなあいつもいないことだし、こりゃ気分良く過ごせそうだぜ。
数日後、
「What the f○ck!!!???」
また姿を現しやがった、あの化物が、、、。そりゃねえだろ、織姫と彦星かよ。
あれだけむしってやったのにまだ生えてくる。もはや雑草とよんでも許される域だ。
だからお前はほんとに必要なのか?いや、これだけ根気よく生えてくるからには必要なはずだ。現状何にも役立ってないけど。毛は大事なところを守るためだとか、寒さを凌ぐためだとかいろいろ役割を聞くけど、すね毛にはどうもこれといった役割を見つけられない。弁慶の泣き所を守ってくれるとかだったらブチギレてしまうかもしれない。こんな薄い毛でどうにかなる相手ではない。こと現代においては本当に役割のない存在なのかもしれない。しかし、意味のない存在がこんなに根性を見せるはずがない。そうなr…。
こんな堂々巡りをしているうちに季節は回って、すね毛も完全体に戻り、私はいつの間にかすね毛の存在をどうでもよく思い始めてきた。もしかしたらみんなこういった経験を経て、すね毛という存在の認識を更新していっているのかもしれない。そんなことはない。
人生において「余裕」というのは思ったより大事かもしれない
皆さんこんにちは。最近は、友人の家に泊まったら「いびきがうるさすぎてアラームかと思った」と一日の出だしを早々に挫かれた私です。もちろん一番被害にあっているのは友人の方ではあるが、加害者もちゃんと傷つく事件だった。もしも私が開口一番に「よかったね、世界で一つだけの親友アラームの誕生だZE☆」なんて言おうものなら、首を一噛みで持っていかれそうな、そんな殺伐とした空気でした…。
さて、私は春から大学4年生になるが、この年になってくるとさすがに周りはみな忙しくなってくる。特に専門学生や、これから社会人、またすでに社会人になっているという人は、カートゥーンネットワークのキャラクターみたいに目をグルグルさせて頑張っている。ちょっと狂気を感じる。
というか今ふと思ったけど、この「社会人」という単語、主に学生を終えた人たちを指している単語だと思う。何なら働いている人全般をそう呼んでいるような気もする。なぜ「社会」なのか。まるで学生はまだ人としてのコミュニティにすら入っていないと言わんばかりではないか。仕事をしていないような人はコミュニティの外に位置していると、この「社会人」という単語が明確に示しているように感じてくる。まあ確かに大半の人は普通に仕事をしているわけだし、そう考えると一般的な人のコミュニティには入っていないわけである。
つまり極論は、
人=仕事
社会こそ仕事であり、仕事こそが人であるというのか。聡いな、名付け親。バイブルはそれこそ聖書に違いない。
なんとなく肩身の狭い学生をしているわけだが、特に大学生というのは時間に余裕があるのだ。専門学生や社会人と比べると、倍近く余裕がある。そのため、大学生とこの両者が一緒に遊ぶとなると、おのずと時間的余裕の違いによる隔たりが生まれる。
我らが大学生ならだれでもワンコールで飛んでくるはずだが、専門学生や社会人あたりは高確率で否定的な返答が返ってくる。私の友人のT君に至っては、仮に遊んだとしても次の日朝早いから、寝不足だからなどとのたまって、遊んでいる最中も早く帰りたい感を出してくる。じゃあなんで誘いに乗ったんだとという話だ。まあ彼なりのプライドとかがあるのだろう。
時間的余裕がないのはしょうがないこと、むしろやりたいことで余裕がないのなら賞賛すべきだ。しかし時間的余裕の無さによって精神的余裕まで無くしてしまうようでは意味がない。誰も帰りたそうにしている人とは遊びたくないだろう。自然と人も離れていってしまう。だから私は余裕がない時こそ余裕なふりをしようと心がけている。
人というのは意外とバカなもので、ほとんどの情報を外見からしまうそうだ。これはメラビアンの法則というもので、
視覚情報・・・55%
聴覚情報・・・38%
言語情報・・・7%
といった割合で人を判断しているらしい。つまり実際の内容はたったの7%しか伝わっておらず、それ以外の93%の声音や見た目によってその人物を決めつけてしまうのである。そりゃ詐欺もハッタリもまかり通るわけだ。この結果をそんな馬鹿なと一蹴するか、重く受け止めるか。ちなみに私は思い当たる節が多すぎて受け止めざるを得なかった。
先ほど話したように、余裕のない人はどこか頼りなさげでつまんなそうに”見える”ため、人も寄り付かないだろう。逆にどこか余裕に”見える”人は、なんとなく包容力があり、柔らかく、周りに自然と人が寄ってくるだろう。
さらに人だけではなく、余裕というのはおのずと「引き寄せの法則」にも関わってくると考えている。これは経験からの直観になってしまうが、少ないながらも私が今まで出会ってきた、見てきた人の中で、余裕があり友人が多い人(大体にしてオープンで自信のある人でもある)は、運も引き寄せてしまうのである。これは私の賭け事による数多くの敗北から見出したので間違いない。ここぞという勝負の場面で余裕を”見せられる”人は、時に運までも味方につけて勝ちを引き込んでしまう。何回も言うように、大事なのは余裕を見せようとすることだ。たとえ内心余裕がなくても、ふりをすることで相手だけでなく自分自身も余裕であると勘違いさせるのだ。いったい何万円分この余裕に負けたことなんだろう…。
特にこの個人主義の競争社会の中で、競争相手に余裕を”見せられる”ことはきっと大きなアドバンテージを生むと思う。まあこれは、たまたまそういう時代なだけであり、話が逸れてしまいそうなのでやめておこう。
まあ余裕がない事は悪ではないし、否定するべきではないが、ふりでもいいから、余裕を作ってみると意外と楽しくなるかもしれないよ、ということだ。
あと友達と遊んでいるときにネガティブな発言ばっかすんのやめろやって話。
桜は酒カスに拍車をかける
「春はバカに拍車をかける」とどこかの漫画では言っていたが、確かに寒い冬を乗り越えて訪れる春は、待ち遠しくてつい陽気になってしまうかもしれない。そんな調子で桜なんか咲いてしまえばもうお分かりだろう。「桜は酒カスに拍車をかける」のである。
私は小学生の頃、少年野球チームに所属していた。私の少年野球チームは、大体所属する子のお父さんがコーチをしてくれていた。そんな感じなので、親同士が仲良くなることは不思議ではなかった。するともう当然のように春になったら花見なんかをしちゃうわけである。子供も同伴するため、私も毎年四月は楽しみだった。
花見というのは改めて考えると不思議である。昔の人は確かに純粋に花を見て楽しんでいたのかもしれない。しかし現代でそれを行なったらどうだろうか。昼間に散歩しながら花見をするならわかるが、夜にブルーシートを敷いて1人桜を見てにやけているのである。不気味だ。不審者とまではいかないが、明らかに不気味である。
そう、我々現代人にとって花見とは名ばかりのものであり、最初の数分こそ感動するが、あとはもうただの飲み会、乱痴気騒ぎだ。そして例に漏れず、我々も現代風花見をしていた。
恐ろしいのは父母たちの飲みっぷりだった。仕事仲間ではなく、何も気にせず飲めるお酒というのは美味しいのだろう。私は普段の姿とはかけ離れた大人の姿に驚愕した。お酒というのは、実はいつもの自分じゃ考えられない事をしてしまうような恐ろしいものではなく、元々ある自分の感情を高めるだけのものであり、それこそが本来の自分の感情であるらしい。みんなただただ楽しみたいだけの人たちなのだ。
普段無口なDくんのお父さんに「おい!楽しんでるかい!」と肩を叩かれた時に、私は小学生ながらになんとなく確信したのである。
お酒こそが平和へのカンフル剤だと。
そして弱冠20歳の春、私は平和を背負いながら、満開の桜の下で明るくなっていく景色と相反するように、意識は暗闇へと落ちていった。背負った平和は砂まみれになっていた。まあ普通に泥酔しました。はい、酒カスですね。
翌日、殴られたような頭痛で目が覚めて、なんとなく確信したのである。
お酒なんかで平和が訪れるはずがないと。
そもそも花見してる時も、そこらへんで奇声だか怒号だか鳴り止まなかったし、ちょっと厳ついにいちゃんに絡まれるの怖いし、花見した後なんてゴミだらけで地域の人絶対迷惑してるだろうし、こんなんで平和が訪れるわけがない。
しかしそれでも花も見ずに花見をしてしまうのは、きっとあの楽しい大人たちを見てきたからだろう。みんながみんな幸せな顔して笑っている思い出は美しいものだ。
コンビニの明かりにヤンキーが集まるように、桜の下にはどうしても酒カスが集まってしまうだろう。それでも私は桜が舞い散る中でのあの狂乱が好きだし、桜に一番合うのはお酒だと思うので、やはり花見は最高だ。
ただどう考えてもお酒で平和は訪れないなあと思いながら、私は相棒のPeaceを吸うのである。
寺田心くんの新CMの起用法に感心した
皆さんこんにちは。最近は、ブラックミュージックやエレクトロニカ系をよく聴くのですが、聴けば聴くほど日本のヒットチャートとのギャップを感じる私です。文化が原因なのか、それとも戦略によるものなのか、気になりすぎて本を買った次第です。今度紹介したいですね。
さて、みなさんもSNSを使っているなら既にご存じだろう。ここ最近毎日のようにTwitterで拝見する人物がいる。
そう、寺田心氏である。子役としてデビューしてから、そのあざとすぎる振る舞いを武器に一世を風靡した10歳である。その人気からすでに億プレイヤーなのではないかとも噂されている。
しかし、現代社会には強烈すぎるあざとさから、一部では「下心くん」「邪心くん」などと揶揄されている一面も持っている。ちょっと言い得て妙だと思ってしまった。
そんな彼は今SNS上でバズっている。それはもう「セイキン毒盛り事件」に匹敵するくらいだ。何なら親の顔より見ているかもしれない。その原因となったCMがこちらになる。あと一応セイキン毒盛り事件も。
完全に邪心くんである。
邪悪な心と書いて邪心くんである。あとセイキンさんは毒を盛られすぎだ。完全に致死量を超えている。
今まで心くんに対しての揶揄的な発言などは、表のTVの世界では発信されてこなかった。仮にTVを表とするなら、あくまで裏側のTwitterなどのSNS上では、コラ画像などを用いて、言い方は悪いが遊ばれていたような感じだ。こういった「裏でいじられて裏で人気になる」というケースは、最近になって多く見られるようになってきたように感じる。表は表、裏には裏のニーズがあり、そこは明確に分かれていて、お互いに干渉しないようにしていると感じていた。
しかし今回のケースは少し違う。明らかに裏側の人気ぶりを把握したうえで、表側が干渉してきている。つまり「裏でいじられて裏表で人気になる」というケースになる。
裏側のニーズに合わせた起用法をしたブックオフ。裏側で起こる「バズる」という現象は、今や想像以上に広告的価値があるように思う。それを全て把握したうえでの戦略なら、感心せざるを得ない。思った通りにバズり、中毒者まで出ているようだ。
今回は裏側のニーズの内容が過激すぎないからできたことではあるが、ついにTwitterなどの裏側の需要を表側のTVに反映させる時代が来たのかと思うと、まあなんか、ふーんて感じだ。
心くん自身も揶揄されている内容をそのまま役として演じ、いわば公認のキャラにしたわけである。自身のタレントとしての幅も広がり、今後の活動によってはヘイト側の支持をごっそり持っていく可能性もある。そうなると第二ブレイクもあり得る話だ。
しかしここで少し懸念されるのが、いじりの過激化だ。いじりはSNS上で行われていて、顔も見えないため、過激であることが多い。扱い方を間違えれば、いくらSNSといえど沽券にかかわることもあるだろう。ましてや、TVというほとんどの人の目に触れるものでこういったいじりを扱う場合、より慎重になるべきだろう。
ともあれ、これまた言い方が悪いが、これから心くんがどのように扱われていくのか、注視していきたい。
全人類が待望する歯ブラシとは
皆さんこんにちは。最近は、昔からよく見る夢が「下半身を露出した状態で外を闊歩し、途中で異変に気付いて帰宅する」という夢だと話したところ、深層心理を疑われた私です。勝手に夢あるあるとして納得していた自分が怖い。普通に引かれたし、異常と判断されたので、今度近くの精神科医でも行ってこようかな。緊張するし下半身の通気性はよくして行こう。
先日、私は数年ぶりに歯に痛みを覚えた。実に小学生ぶりである。こすった瞬間に歯医者に行って削るところまで悟らせる痛み。しかし歯の生え変わりとともに、見事に私の頭の中からもその悪魔の存在は抜け落ちていた。皆さんもご無沙汰であろう、虫歯という悪魔である。
完全に盲点であった。確かに年を重ねるにつれ、朝昼晩しっかりと歯を磨くことはなくなった。特に昼に関しては、毎日磨いている人のほうが少数派であろう。
しかし、しかしである。朝と晩、晩は特に磨かないとよくないと聞いたので欠かしたことはなかった。にもかかわらず、突如無慈悲に訪れた激痛。
そんなにか、まだ足りないというのか、昼も欠かさずしろというのか。もっとやる気出せよ奥歯!根性ねえのか左上奥から2番目!!思春期かお前は!!!
どうやら触れたらすぐ傷ついてしまう思春期特有の潔癖があるため、私はこれ以上責めるのはやめ、すぐに病院へ足を運んだ。
結果から言うと、私の花も恥じらう、いやチェリーボーイの奥歯は悪魔に侵されていなかった。まだ健全だったのである。ごめん、あんなに責めて、童貞とか小便臭えとかママのおっぱいでも吸ってな!とか言っちゃって…。ではなぜこんなにも多感になってしまっているのか。にわかに未知への恐怖に支配された。
いくつかの質問と歯の状態から医者が判断するには、どうも歯ぎしりが原因らしい。確かに寝ているとき歯ぎしりをしているとよく言われる。まさかそれが原因とは…。
私の歯は、通常の歯と比べると、かなり削れているらしい。もしかすると思春期で成長期で伸び盛りの奥歯の成長を、私は止めていたのかもしれない。寝ている間に若い芽を摘んでしまっていたのか。そうだとしたらなんと不憫な奥歯だろうか。人の目にもあまり触れず、数ある奥歯の内の一つとしか認識されず、挙句の果てに唯一の楽しみの成長を妨げられたのである。
すまん奥歯よ、来世は違う人の前歯でのびのびと誰よりも輝いてくれ。きっと立派な出っ歯だろう。
話が逸れたが、この激痛の原因が歯ぎしりによって傷ついた神経によるものだと判明した。しかし、歯ぎしりというのはそう簡単に治るものではないらしく、これ以上歯を傷つけないためにとマウスピースを作ってもらい、その場を後にした。
さて、ひょんなことから虫歯という悪魔の存在を思い出してしまった私であるが、鮮明な記憶と共に頭の片隅から離れなくなっていた。そこでちょうど父が例のごとく風化させた1万近くした電動歯ブラシが家にあることを思い出したので、歯の健康のためにと使ってみることにした。
はれれ、?すごい、これ、すごく良いぞ?
前歯の裏とか、奥歯の隠れ家的なところとか、みるみる落ちるぞ、気づいたら生まれたてツルツルだ。
今まで私はなぜこのハイテクブラシを使用してこなかったのだろうか。新時代の到来にちょっとした恥辱を受けた気分だ。馬車馬のように無心で奥歯をゴシゴシしていた自分は、もはや秘境に住みついている文明の止まった部族である。文化遺産まである。
文明開化をした私は、ここで改まって「歯磨き」という行為について考えてみた。排便や食事のようにどうしても生きるために必要なものではない。にも関わらず私たちのほとんどは、毎日欠かさず「歯磨き」という行為をしている。したところで上記に挙げた行為のように満足感などは得られない。ただ「しなきゃいけない」という使命感によって行っているのである。
そんなことを考えていたら、歯磨きをすることがとても無駄に感じてきた。だいたい片手が塞がれるというのも納得できていない。この時間に何かしようにも、神経が片手の運動に割かれてしまうため、なんかこうイマイチなのだ。
しかし、歯磨きをしないわけにもいかないのである。そのため、時間にして3〜5分程度であるが、この単純作業を行うのだが、ここまで否定しておいて今まで通り歯磨きできるはずがない。もう今までこの時間をどう過ごしていたのか分からなくなってきた。
ほかの人はどうなんだろう。いったい歯磨きをどう捉えていて、歯磨き中にいったい何をして何を思うのだろうか。不意にそんなことが気になってきた。歯ブラシを擦りながら、ただただはるか地平線を見据えているか、はたまた遠くに行ったあの人のことを思うのか、それとも世界平和について考えているのか…。まあ全部違うか。
しかし、きっとこの歯磨きという時間がすこぶる好きでござるなんて人は希少種であり、何ならめんどくさがる人のが多いと思う。5分の歯磨きを毎日2回したとして、1年で3650分、時間にするとおよそ60時間、さらに人生を100年とすると、6000時間。
多分結構な時間だと思う。多分ね。
するとどうだろう。流石に歯を磨かないという選択肢はないが、いまだに普通の歯ブラシで「奥歯ぁ…ヌゥゥゥ…‼︎」、「前歯の裏ぁ…ニィィィ…!!」とかしていられないはずだ。我々人類は科学の進歩とともに、この歯磨きの時間を極限まで短くする必要がある。
完全手動の歯ブラシから始まり、時間短縮、労力削減、洗浄力アップを目指してついに電動歯ブラシまで完成させた。しかし、まだまだ高みを目指せるはずだ。歯ブラシで擦る時代から、歯ブラシを持つだけの時代まで来た。次は歯ブラシを持たなくていい時代に行ってもいいのではないか。もう水を含んだ口の中に放り込んだだけで、なんか振動とかで勝手に掃除してくれるような優れものだ。
そう、全人類待望の歯ブラシとは
全自動歯ブラシ機「ルン歯」
である。
企業の皆さん方、開発の際は発案者としてぜひ私に一声かけてください、そして何割かお金ください。あとCMとかも全然出ます。
愚かな私の卒業記(1)~ミルフィーユ的反省~
皆さんこんにちは。
この日記は、これから大学4年生になるにもかかわらず、あまりにも少ない単位、毎年必ず誰かしら落とす鬼畜卒論、まだ何も始めていない就活、この三拍子揃った私がこれからどうなっていくのか、客観的にまとめることで頭の中を整理しようという趣旨のものである。
なお、現時点ではまだギリギリ現役卒業が視野のため、最終目標は現役卒業としている。
猛省である。反省に次ぐ反省。大学受験から大学4年生になるまで、幾度となく行われた反省は何層にも重なり、もはや地層を形成しはじめ、歴史を作り、時代の流れとともにより深く刻まれていく。かっこつけたけど、とにかくヤヴァイってこと。ミルフィーユ的反省ってこと。
今回は第一回ということなので、なぜこんなヤヴァイことになっているのか、順を追って話していこうと思う。
元をたどれば高校にまでさかのぼる。私は文系大学に通っているが、実は高校3年まで物理専攻のゴリゴリの理系だった。もちろん、当時の私自身もこのまま理系の大学に進学するものだと思っていた。
しかし、しかしである。調べれば調べるほどわかる理系大学の地獄っぷり。普通に通えば、ほぼ奴隷。少しイキれば、にじみ出る理系感に苛まされる滑稽な根暗。ならばと捻てみれば、ネットでマウントを取り合い、満足する廃人。完全なる偏見である。
当時の私にはこの八方ふさがりのルートしか見えなかった。間違いなく数年後にはチェック柄のシャツに身を包み、これでもかというほどの缶バッチを付けたリュックを背負い、もはやアイデンティティとして確立した出来立てほやほやの寝癖を揺らし、庭と言わんばかりに都心を肩で風を切って歩いていたであろう。完全なる偏見である。
そんな理系への偏見と、校則が以上に厳しい学校というのも相まってか、私はただ自由を求めた。求めすぎたあまり、自由が迷走し始め、現在足を引っ張っているわけだが。自由が不自由を創造するというパラドックスに頭を抱えながらここまで来てしまったのである。
そして私は高校3年の9月、ついに文系大学を受けることを決意した。私はこの決断を後悔した日はないが、最初から文系志望しとけばよかったと死ぬほど後悔している。
どうせならと、文系にいる親友と同じ大学を目指すことにし猛勉強をしたが、うちの学校からは毎年一人受かるかどうかのところであり、私は落ちてしまった。親友の彼はとんでもなくバカだったが、とんでもない集中力で見事受かった。その集中力はもう同じ人間ではないのかと思うほど、怪物じみたものだった。目的のために効率の良い手段をとれるような人は、本当に頭がいい人だとこのとき身をもって知った。
志望校に落ち、理系から逃げるように文系大学に入学した私は、当然目標などはなかった。経済学部だったので経済を学んでやろうとか、最初の頃はまじめにやろうとしていたが、中身の詰まっていない薄っぺらな目標は成し遂げられることはない。何度同じようなことを繰り返すのだろうか。
そんな私は自由に溺れ始め、当たり前のように単位を落とし始めていた。最初は入れた単位をどのくらい落とすかという視点で見ていたが、次第に参照点が変化していき、今では入れた単位からどれくらい取れるかと落とすことが前提になっている。恐ろしい…もう単位を落とす恐ろしさを忘れているのが恐ろしい。環境適応力◎過ぎて辛い。
そんなこんなでついにゼミ選択の時期が来た。なんとなく厳しいとこにすれば変わるだろと浅はかな考えでゼミを選んだが、日ごろの行いが悪いのか、成績が悪いのか、はたまたそのどちらともなのか、私は無事3次選考まで落ちていった。
そこでいったん冷静になった私は、厳しいところに行ったら文系にした意味がないのではないかと原点回帰して考えた。しかし、そもそも理系から逃げただけであり、文系自体に意味を見いだせていない時点でなんだか何の意味もないような気がする。
意味がなさ過ぎて意味が分からなくなってきた。ん?意味がないなら意味は分からなくていいのか。いやでも意味がないことの意味が分からないわけだから意味がないことに意味はあると仮定してるわけだ。しかし意味がないことに意味があるのならそれはもう意味があることなのではないか。意味という言葉が崩壊して、また再構築して意味を成している。そうか、これが宇宙、これが全であり一であるのか、コスモを感じる。
話が逸れたが、私は再び自由のため、楽なゼミに入ろうと決意した。そうは言ったものの、私は3次選考まで落ち、成績も悪く、選べるところが少なくなってしまったわけである。しかし、ここで千載一遇の好機が訪れた。明らかに楽なゼミであろうところがじゃんけんでメンバーを決めるという。じゃんけんで決める時点でもうまじめではない感がすごい。
とにかくこの突然来たビックウェーブ、乗りこなすしかない。2グループに分かれてじゃんけんだ。約20名から負けを2人だけ出すという超イージー。確立にして1/10。
結果、
圧倒的敗北。
有無を言わせない敗北。最後の2人になるまで負け続け、まるでもとから決まっていたかように敗北へ吸い込まれていった。
私に勝った相手の「なんかごめんね」という同情の言葉、私の行き場のない悲しみと怒り、教室の去り際に感じた20ほどの同情のまなざし。てめえらの顔全員覚えたかんな。どうやら怒りの行き場は見つかったようだ。
そんな私の怒りも虚しく、現実は無慈悲に私の前に立ちはだかった。いよいよ選べるゼミがほぼなくなったのである。どうでもよくなった私は、ゼミ紹介の文面からして堅苦しそうなゼミを選んでしまった。いや、ほとんど選ぶしかなかったといえる。
ここである。大学生活で最も愚かな選択をしたのは間違いなくここである。ちなみに2番目はサークルに入らなかったことだ。
こんなにも愚かな行為だったと反省してしまうようなゼミ。いったいどんなゼミなのかというと、まず毎年のように卒論級の論文をグループで書かせるという鬼畜っぷり。週2、3で22時まで学校に拘束され、提出が近くなると毎日のように集まっていた。もちろん長期休暇時も例外ではない。さらには、新設のゼミであるため、先輩がいないのである。あと女子も少ない。
そんな地獄の中でも自由を求めてしまった私は、独走する自由に単位が追いついてきていないことに気付く。3年の秋のことである。 手遅れ感が半端ない。
とても長い時間を無駄にした自由とは一体何なのか、もしかすると自由ではなかったのではないか。もう一度自由について捉え直す必要が大いにあるが、この辺にしておこう。
反省すべきは計画性のない目標と考えなしの行動である。21年間で私は幾度となくこの反省を繰り返してきている。失敗は成功の母というけれど、失敗を分析し、理解しなくては次には進めないのである。
次回に続く。